ジバンシ◯で朝食を

ブログを書く事にした。目的は一つ。(例え幸せでなくとも)1日1回は自分に「私は幸せだ」と言い聞かせる為だ。

 

なぜそんなことをするのか。絶対続かなくない?そもそも書く程内容ある生活してなくない?と自問自答してしまうが、簡単に状況を整理すると、今人生に息切れしている為である。それはある日突然訪れた。糸がぷっつり切れた気がした。凧は空へ流れ、私は追いかけもせず地面に垂れた糸をぼんやりと眺めている。もうその状態がどれくらい続いているか。悲しい事に私はその凧を何の為にあげていたか、その凧の形すら分からない。飛んで行った先には「人生の展望」とか「未来予想図」のような柄が描かれていたかもしれない。或いは子供の頃に遊んだビニール袋で作った透明な玩具かも。(ビニール袋で凧つくるの懐かしいな……今度川でやるかな)

ただ、社会という川原で皆が凧あげをしていると認識していたので、私も風を捕まえて凧をあげなければ、と思っていたのは確かである。つまり一般的な社会のルールに則って凧をあげることが目的になりその凧が何なのか、よくわからないまま駆けずり回っていた。(これは大人になってから、というより今までの人生ずっとそうだった気がする)

 

私は糸にもう一度凧を結ぶべきなのか。結べるのか。

そもそも凧って何なのか。

 

全くわからない。

 

今はこの疑問を一旦は胸にしまう事にする。答えのない問いを頭の中で反芻するのは悩んでいるだけで考えているとは言えないらしい。悩むと良くないらしい。体力ばっかり消費して答え出ないからだっけ……あんまり覚えてないけど……。一先ず幸せだと声に出したり、書いてみなさいとアドバイスされた。(この話をしてくれた方は白髭を蓄えた老人(以降、老師とでも呼ぶか……)で到底漫画なんか読みそうにないが、なんだかシャーマンキングを思い出した。ホロホロがハオと自身の圧倒的な巫力値の差に絶望した時、敵のザンチンは言う。「出来るも出来ないも全ては『思い』一つ」だと)   

それで、麻倉葉みたいに草むらに寝転び、日記をつけ、最後に必ず「私は幸せだ」と主張しようと思ったのだ。

 

さて、三日坊主にしない為に1日目から張り切って長々書くのはやめにする。今日は何故日記をつけるのかまで書いたからもう良いと思う。(ここまで書いといてなんだけどブログって断定口調でやるべきか、ですます調なのかよくわからないね……)

1回書いたものが全部消えて、わざわざ頭の中から何を書いたか引っ張り出し、眠気と戦いながらもう一度同じ内容を打っていても、きっと夜更かしは心身に悪影響でも「私は幸せだ!」。コンビニで買った杏仁豆腐、美味しかった。